年末に友達が来たときのお茶セット。
アスティエと作家物と日本の少し古いものと中国のものが、
不思議とうまく組みあわさってとても嬉しかった。
ぴったり、というわけでもないけど、何となく調和がとれている感じ。
それはどの器ともそこそこ付き合いが長くなってきているからのような気がします。
最近器を見てもそんなにときめかないのはそのせいかな、とも思います。
すでに手元にある物たちが、一周回って(ものによっては2週回って)
新しい組み合わせや、そのままの素敵さをまた教えてくれているような気がする。
それでも久しぶりにアスティエを見に行くと、ああ、あれも欲しいこれも欲しいって思うけれど、、、
昨日は期せずして、かねてから自分が思っていたことを、違う人たちも同じように思っていたことが分かって、なんだかとてもすとん、と気持ちが落ち着いた一日でした。
ほんのちょっと前まで、私は自分の中の違和感を見過ごせなかった。
口に出して言って、聞いてもらって同意してもらわなかったら気が済まなくて
(なんてめんどくさい、、、、)
それはそれは周りの人たちに随分ご迷惑をおかけしたのですが、
ちょっと前からそれをしなくてもいられるように、やっとなってきました。
そもそもは、きっと少し前までの人生は違和感を感じる人となんてつきあうことはなく、
わたしはわたしの好きな人たちとだけで構成されていたし、
苦手そうだったら近づかなかったら済む話だし、
そうやってきたはずなのに、いつのまにか世界の広がり方が今までと違っていて、
そのことに気づかないでわたしは自分の違和感をうまく対処できなかったのだと思う。
いまは、わたしは最初の位置に戻って、私の好きな人たちとつきあっていけばいいし、
違和感を感じても、それはそれでそう言うものだと思えばいいのだ、とやっと思えるように、、、
中学生みたいだけど、そんなことをしんどく思う時期は、いつもじゃないけれど
定期的にやってきていました。
でも、なんとなく謎が解けたから多分大丈夫。大丈夫、かな?
好みが似ている、というのは必須条件ではない気がします。
好みが似ている人とは気があうことも多いけれど、
好みが似ていなくても気があう人の方が長くつきあえる気がするのです。
価値観が似ている、ということのほうが大切なのかなあと思っています。
(そりゃ、好みも価値観も似てたら最高です!)
そして私に対してどう、ということではなく、モノコトヒト、全部への接し方が
似ていたり、尊敬できる人が好きです。
ただ、私には悪い悪い癖があって、
連絡する時はするし、行くときはいくのだけど、
なにかのペースが違うペースになったら、連絡しなくなったり行かなくなったりしてしまう。
それは理由があるときもあるし、ない時も多くて、
でも相手としたらそれは不安だろうなあと思うのです。
ムラがある、と言われたらそれまでだけど、そういうペースの時がある、と思ってもらえたらいいのですが、それは勝手な言い分かなあ、、、、
でも、こればっかりは精一杯気をつけていても、行けない時は行けないし、
それでも受け入れてもらえる範囲でいるしかないなあと思っています。
だからこんなわたしが、ヒトモノコトへの接し方がいい人がいい、なんて
どの口で言うんだっていう気もしますが、これはこれで精一杯しているので
大事な友達たちには誤解されないように気をつけようと努力しているのですが。
それにしても、なんていい時間だったんだろう。
なんだか外の寒さと闇にまぎれて、暖かい灯りの中で静かにお互いの本当のことを話したような時間でした。
今年はいいペースで時間が過ぎている、そんな気がします。