まとまって日記を書いておかないと、また書けない日々が来て、こんな気持ちも忘れてしまいそうなので今日は日記を書く夜にします。
わたしは子供の頃に随分家族に悔しい思いをたくさんさせられ、笑、
今は笑い事で済むけれど、思い返したらなかなかかわいそうだったなあと思います。
理解されず、期待され、出来て当たり前で、そして家族のみんなはいつも偉そうだった!
え?そうなの?って思ってやってきたけど、大人になって改めて接してみたり、振り返ったら
話が違う!ってことがたくさんあります。
みんな誰だってそうだと思うんだけど。
小学校のころの担任の先生が今の自分より随分若かった、とかそういうのを思い出すと
びっくりするのに似てるかもしれません。
でもまあ認めてもらいたいし、褒めてもらいたくて頑張ってきたのに、
あれ?ってこともあります。
その気持ちはどこにおさめたらいいのかわからないけど、
それものりこえていかないといけないんだろうなあと思います。
熱を出しては怒られ、怪我をしては怒られ、しんどいと言ったら怒られ。涙
わたしかわいそうだったなあ、としみじみ思います。号泣
おかげで今も家族には体がしんどいことを隠してしまいます。
怒られるのが嫌だから。
変なの。
まあ、しかたないや。それがうちの家族の形なのかもしれません。
だからわたしにその部分で優しさを求めないでほしいなあと心から思う。
心配の裏返しかもしれないのもわかってるんですが。
でもこういうのは、負の循環だなあって思う。
そういう風に接してこられたから、そう接してしまう。
人と人が出会って、違う習慣や違う気持ちに出会う素晴らしさはそこにあるんだろうな。
わたしはそのことに気づくのが少々遅かったような気がします。
リアルな世界の人間関係の中では、これまでの価値観にとらわれていて、違う視線はなかなか持てなかった。
違和感は違和感でしかなく、自分が窮屈な思いをしているはずの価値観を当てはめようとして苦しかった。
SNSのいいところは、内の世界も外の世界も大きく変えることなく、
他の価値観にゆっくり、深く出会っていけるところだと思う。
あの人たちに出会わなかったら気づけなかった。
おまけみたいな世界の中で、何度も何度も励まして、奇跡のような瞬間をくれた人たちがいたから、
現実の世界でこれまでに見過ごしてきたことや、気づかなかったこと、誤解していたことを
取り戻しつつある気がします。
それも正解はないのだろうけど。
苦しくない生き方があるということを知り、
誰もが苦しいのだと知った、と言ったほうが正確かもしれません。
小さな世界に閉じこもっていたり、わたしはこれでいいの、と言っている人に
それも悪くないかもしれないけど、外の世界も悪くないよ、と自身をもって言ってあげられるのは
よかったことかな、と思います。
文章と内容が無関係な日記が続いていますが、これは母の形見の万年筆。
買いに行った時のことをうっすら覚えてる。
多分、あの時だろうなあと思うので、父に確かめておこう。
大学院を卒業した時に、大学の恩師と大学院の恩師にそれぞれ名前入りの万年筆をいただき、
これももらったので3本持っています。
いちばん書きやすいのはこの母のモンブラン。
いちばん苦手なのがパイロット。
でも、久しぶりにパイロットを使ってみたら、かける!!!
カリグラフィーペンをつかえるようになったからか、太めの万年筆も使えるようになったみたいです。
日常でももう少しこの万年筆を使おうと思っています。
来年かな。
来年、自分の場所を持つようになったら、恩師にもらった名前入りの万年筆を職場で使おう。
でも、いつか自分でとっておきの万年筆を選んで買いたいのが夢の一つ。
3本ももってるけど。